『景の海のアペイリア』 雑記

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肉の体という檻を認識しそれを脱しようとした彼だったが、その実その世界こそが肉体の檻を脱した世界なのだった。

 

…とまあ、一空観は肉体を捨て去った先に自由と進化があると主張し、そこを目指した。しかし目指した場所はそもそも自分がいた場所であり目指した場所にいながら未だそれを求めるというのはなんとも人間らしいなあと感じた。

人間というのは常に自分が持たないものを求め、手に入れたもの、既に持っているものへの興味は常に失われていく(もしくは持っていることに気が付かない)。そういうものなんだよなあってのを再認させられた。

 

そもそも、肉体を捨て去ったところでどうしてもどこかに自身を存在させるためのハードが必要なわけであり、結局肉体の檻から完全に脱却することなんかできないんじゃなかろうかと思う。まあ空観が言っているのは人間の完全な情報化じゃなくて肉体という古いハードウェアを捨て去って機械という新しいハードウェアに乗り換えることで自由と進化が待っているという話だけど。

 

まあこんな話はどうでもよくて、アペイリアをやっていて感じたのは「機械知性と人間 / 2次元と3次元に線引をすることなんかくだらないよね」ってことです。これらはすべて等しく同じ立ち位置で生きていて同じように尊いんだとそういうわけです。

最近、前にも増して2次元の実在性ってのを感じられるようになってきて、所謂メタフィクションと言われるものの定義が自分の中で成立しなくなりつつあったわけだが、この作品がまた一歩背中を押してくれることになった。

やっぱ生きてるんだよ、2次元って。下手したら3次元より人間らしく生きてるよ。そんなことを思う。

 

それからタイムリープ / 世界をループすることについて。あれってさ、「おんなじところ(誤差やズレは多少あるけど)をぐるぐる回って最後の1回だけが現実として確定する」んじゃなくて、「ループしたすべての経験が記憶という事実として残り続ける」わけですよ。

一見すると「気に食わないから世界やり直しちゃお」って感じで無責任に観えるけど、あれは繰り返せば繰り返すほどにその責任がのしかかってくるものなんですよね。零一も言ってたけど、人が死んだからタイムリープして、もしその人を救ったとしても、一度死んだという事実は変わらないってわけです。その重みはずっと抱えていなきゃいけない。

この辺の話、別の某繰り返しちゃう作品を思い出してめっちゃ胃が痛くなった。書いてる今も痛い。

眠くなってきたからとりあえずここまで。また気が乗ったら追記する。